2023/2/14
ソフトウェアというのは複雑に絡まり合っており、バグをあわてて直すと他のところがバグる可能性が非常に高いため、バグを治すときは慎重にやろうね、みたいな話ですかね(たとえ話をやめろ)
以下の文章理解できますか?
高齢化の問題を解決する唯一の方法は高齢者の集団自決だ――と(比喩ではなく)文字通り主張するひとがいると仮定しよう。本ノートでは、そのように主張するひとが見逃しがちな事柄を指摘したい。
ただし本論に入る前に注意点がある。本ノートを書こうと思ったきっかけの一部は昨日あたりからのツイッターのトレンドだ。とはいえ、細かな議論をすっとばして言うと、本ノートの議論は成田悠輔本人には関わらない。なぜなら、そこを関わらせるためには彼の発言の意図を明確化せねばならないが、それについてはよく分からないところのほうが多いからだ。それゆえ本ノートの議論は、《誰がどうだ》ではなく、むしろ《どの主張にどんな問題があるのか》という話題に焦点を絞る。
さて冒頭で述べた仮定だが、「高齢化にまつわる問題を解決する唯一の方法は高齢者の集団自決だ」と文字通り主張するひとがいる、としよう。はじめに押さえるべきは、「高齢者の集団自決」を何かしらの社会問題の解決として提案することは無視できない不条理を含む、という点だ。この点を説明すれば以下。
一般に、何かしらの社会問題へ何かしらの解決を提案しようとするひとは、〈社会問題の解決〉という文脈のうちに身を置くことになる。他方で、こうした文脈は《どのような状態の社会が望ましくないか》にかんする社会的な理解を前提する。さて、私たちの現在の社会的な理解に従うと、《高齢者が集団自決をする》という状態は(何かしらの解決たりうる望ましい状態ではなく)むしろ望ましくない問題的状態の一種である。かくして「高齢者の集団自決」を社会問題の解決として提案するひとは、社会が「望ましくない問題的状況」と理解するところのものを解決案として提示している点で不条理に陥っている。
以上が先のような主張を行なう者の見逃しがちな点である。ところで思うに、哲学的には、そうした主張を行なうよりも重要なことがある。それは《なぜ現在の社会において「高齢者の集団自決」は望ましくない問題的状況と見なされるのか》という問いを掘り下げることだ。
この問いに取り組むときに見えてくるのが――具体的な考察を省いて結論だけ言えば――次の点だ。すなわち、この「なぜ」へ絶対的な根拠でもって答えることはできない、と。じつに「高齢者の集団自決」が現代の日本でむしろ望ましくない問題的状況だと思われていることには必然的な根拠があるわけではない。言い換えれば、高齢者の集団自決というオプションが社会問題の解決案から排除されていることはたまたまである、ということ。私たちの社会はかくも不確実な基盤のうえに成り立っている。
とはいえ――ここからもうひとつ重要な点が指摘できるが――このように現在の社会的理解の無根拠性を見出したとしても、ふたたび〈社会問題の解決〉という文脈へ立ち戻れば、やはり《高齢者の集団自決というオプションはそもそも排除されている》という状況を受け入れたうえで何かしらの解決策を模索せざるをえない。押さえるべきは、社会的な理解なるものはかなり頑強だ、という点だ。たとえ無根拠であったとしても個人が意図して動かせるものではない。それゆえ私たちは社会が「解決」と見なしうるところのうちから解決を見つけ出さねばならない。
以上を踏まえると、〈社会問題の解決〉という文脈は、根拠がないにもかかわらず複雑に入り組んだ形をしている迷路のようなものだ、と言えるかもしれない。たしかにたまに壁が壊れて迷路の構造が変化することはある。とはいえ、ほとんどのケースにおいて、私たちは与えられた迷路を辿って出口を探すしかないのである。