2019/2/14
あなたは「コメンテーターによって意見を形成される人間を批判する糸井重里」によって意見を形成される人間なんですね。自分の言葉で語れよ。
・ずっと家にいると、いつもよりもかわら版的な情報に漬かっている気がする。週日の昼間や夕方のテレビを点けておくと、同じニュースが何度も何度も、どこの局からも流される。たぶん、家にいることの多いテレビ好きな人は、ひとつの情報を、10回以上も繰り返し繰り返し、受け止めているのではないだろうか。その情報について、コメンテーターという職業の人から「こういうふうに思う」というような、いくつかの「感想モデル」が提示される。そのうちの気に入った「感想モデル」をコピーしたり、複数の「感想モデル」を混ぜたりして、じぶんの「こういうふうに思う」という意見が作られる。ここまで、じぶんの頭でほんとうに考えなくても、ほんとうにこころに感じることがなくても、なんとかじぶんのコメントも出来上がってしまう。
1日に何十回も「大事なニュース」が放送されていると、その「大事なニュース」について、なにか言わないといけないんじゃないかという気になるのかもしれない。人と会ったときに、その話題について語りたくなる。そのことについて「だまっている」ことが、かえってむつかしくなっていることに気づく。近くに語る相手がいなければSNSでコメントを発表する。そして、しゃべるだけしゃべったころ、その話題がまるごとフェイドアウトしていったりして、あらたに、次の話題がやってくる。
みんなが話題にしていることについて、あなたのコメントを、だれが求めているのだろうか。仮に、近所の話し相手の人々が求めているとして、それは、ほんとに本気で訊きたがっているのだろうか。娘に暴力をふるう父親について、結婚した野球のコーチとタレントについて、重大な病気をみずから発表したスポーツ選手と、それに言ってはならない感想を述べた政治家について、だれもが、たいていのだれもが思うようなことを思う。そして、あちこちで一斉に、コメントの発表をしている。ねぇ、みんな、あんたの本業は、そっちやないで。実際に、あんたを必要としている場所でがんばろうや。