2021/3/2
やはり、「手段として用いる」が「モノ化」の中核的な概念であるように思いますが、これはobjectificationの定義からは外れているような気がします。
人格を無視して手段として扱うということは道具的としてみなすと言い換えられませんか? たとえば、ハイデガーという哲学者がいますが、かれは他者が他者の便宜のために存在する事を「道具的に出会う」と言っています 参考https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ダス・マン